ぼやぼやと生きている。

日本にいる理由も、いない理由もない。

不器用なネイティブ日本語話者

タスマニアに来てから、日本語を流暢に話すローカル(現地の人)に3人ほど出会った。

 

英語スキルがなんせ低いもんで、『英語圏であろう』人と話すときは常に緊張する。そうやってに四六時中構えているのに、『英語圏であろう』人から流暢な日本語が思い掛けず飛び出してくるー。

 

完全に予想外。目玉が飛び出そうだ。

自分の予想を裏切られたその後の会話はとんでもなく、ぎこちない。

 

目を見開き口を開けたまま言葉が出てこなくなる。または、日本語で質問されたことに対して英語で答えたり、なぜか不器用な日本語で会話をする。日本語ネイティブなのに、周りからみたらまるで日本語を知らない人の様に見えるんじゃないかと思う。

 

他にこんなふうになっちゃう人いるのかしら。

 

普通なら安心するところじゃないだろうか。英語で会話する緊張感から開放されるのに。英語じゃ話せないような深い話だって出来るし、親近感を持っても良いのに。何故こんな不可解な反応が起きてしまうのか考えてみた。

 

英語圏で日本語が飛び出す以外性。オーストラリアにいれば人種は関係なく英語が話せるという前提で、英語での会話がスタートする。

という自分の中の当たり前が崩れる→突然のことに驚く。

英語圏で日本語をわざわざ話してもらっているという申し訳なさ。→その優しさに乗っかってたくさん話してはいけない気がする。

・日本人同士でも出来るだけ英語を話す努力をしていたり、周りの友達が日本人以外だったら英語で話すよう配慮していた。→1人の非ネイティブジャパニーズスピーカーが日本語を話して、もう1人日本語が分からないという場合、日本語が分からない人の気持ちを優先しがち。

・自分が英語で不自由している、理解出来なかった時の自分の気持ちを相手に投影してしまう→どこまで自分の日本語が分かってもらえるのか探り探りなって日本語のトーンやスピードの調子が狂う。

 

 

列挙してみると、どこまでも頭でっかちで日本人な自分に気付く。

自分で作った常識の想定外が起こって対応出来ないだなんて、なんだそれは。それに自分のことじゃなくて相手がどう思うか勝手に気を揉んで普通に話せなくなるなんて。

 

ローカルが日本語を流暢に話せるなんてかなりラッキーやないか。仲良くなれるし、色んなこと教えてもらったり、助けてもらったり出来る。ガンガン行けばいいのに、遠慮してんだから不思議なもんだ。素直にコミュニケーションが取れることに喜びたい。

 

どこか頭の中で、ステレオタイプの日本人を演じないと、理想の日本人でないと。という謎の非ネイティブ日本語話者への謎の配慮に気付く。(ガッカリさせてはいけない。日本人のイメージを悪く出来ない。)

そんなもんの前に私は1人の人間なんだから私らしくいる権利があるってのに自分で自分を日本人の枠に押し込むんだから不思議。しかも今の今までそれにはっきりと気付かなかったなんて!

大体、日本語がめちゃくちゃ話せる人なら、既に色んな日本人とめちゃくちゃ話しいて、色んな日本人がいる事を本人はもちろん知っている。

相手が日本人を知らない前提で話すのも、その多様性を隠そうするのも、私は何様のつもりなんだろうか。

 

相手は日本語で話すことに抵抗がないかれ日本語を使っているんだし、それに申し訳なさを感じる必要はない!

 

 

 

なにより、会話を楽しむことが一番じゃないか。私はそんなことも忘れていたようだ。